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zoom RSS 帝王切開誤訳説

<<   作成日時 : 2006/07/02 22:46   >>

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広辞苑第三版と第四版の「帝王切開」の項には、つぎのような説明があった:

中世の俗説に惑わされて、ラテン語 sectio caesarea の caesarea を「切る」の意でなくカエサル(帝王)の意と誤解し、それを Kaiserschnitt ドイツ と直訳したものという

第五版で、この文は消えた。察するに、一時、日本語の「帝王切開」という用語は「不適切な訳である」との説がかなり有力になっていたので載せたが、その後、「やっぱりそうでもなかった」あるいは、「なんだか面倒な話なので、限られたスペースにわざわざ書くことはない」と判断されたのではないだろうか。

caesarea が 「切る」という意味であれば、sectio も「切る」という意味であるから、正しい訳は「切開切開」ということになる。また、Caesar が「帝王」ではなく、「ブルータスお前もか」と言ったあのカエサル(以下、「あのカエサル」と言う)個人をさしていると考えるなら、正確には「カエサル切開」または「シーザー切開」だと言えるかもしれない。しかし、これらの意味は、このように切り離して考えられるものなのだろうか?

「あのカエサル」が切開によって生まれたかどうかは、確実なことはわからないが、「史実ではない」と考えるのが合理的なようだ。しかし、だから誤訳だとか、そういう簡単な問題ではない。

英語 caesarean section の初出は17世紀 (「オックスフォード英語辞典第二版(OED2)」)、フランス語の césarienne は16世紀 (「プチ・ロベール仏語辞典」)。ラテン語 sectio caesarea も古典には見えない語らしく、英・仏語の形と同時代までしかさかのぼらないと思われる。そこで、問題は、これらの語が出現した時に、"caesar-" という形に何が意識されていたかということになる。

"caesar-" という形に結びつけうるものとしては、次のようなものが考えられる。

1) ローマ人の家名 (cognomen) のひとつ。それを名乗る家系から、「あのカエサル」が出た。
2) 「あのカエサル」個人。
3) ローマの皇帝。あるいは一般的に皇帝。
4) caesus (ラテン語で「切られた」) という語と語源的に関連のある造語成分

また、OED2 は、「切開によって生まれた子供」をさす caesar という語を載せており、その用例は caesarean section よりも古く、16世紀にさかのぼる。

1540 R. Jonas tr. Roesslin's Byrth of Mankynde i. ix. fol. liii, They that are borne after this fashion be called cesares, for because they be cut out of theyr mothers belly, whervpon also the noble Romane cesar the .j. of that name in Rome toke his name.

Roesslin's Byrth of Mankynde は、ドイツ語から翻訳された本で、産科の教科書として、当時としては画期的な本であったらしい。「切開によって生まれた子供」は cesares (複数形) と呼ばれるとあり、ローマのカエサルの名も、「そこからとった」と言っているようである。この文を書いた人は、「あのカエサル」は切開によって生まれたと考えているが、「カエサル」の語は、もともとそういう子供を指すものとしてあって、それが「あのカエサル」の名としてつけられたと考えているようにも読める。

フランス語のほうを見ると、プチ・ロベールの césarienne の語源は次のようになっている。

du lat. caesar «enfant mis au monde par incision»; de caedere «couper»

「切開によって生まれた子供」をさすラテン語 caesar と、「切る」という意味の動詞 caedere が語源としてあげられている。「あのカエサル」との関係については触れていない。césarienne という語に先立って caesar という用語があったという点では英語と並行している。

そこで、

5)切開によって生まれた子供

という意味を付け加えてもよさそうだ。

これらの意味の派生関係としては、

家名の Caesar → 「あのカエサル」→皇帝

なのはまず間違いない。その家名の Caesar は 「切る」という語と何か関係があるということも、可能性としてはかなりある。しかし「切開によって生まれた子供」はどこに入れたらよいだろうか?

7世紀ごろのスペインの学者イシドルス (Isidorus Hispalensis) の『語源録』 (Etymologiae) 9.3.12 にはこう書かれている:

Caesarum nomen a Iulio coepit, qui bello civili commoto primus Romanorum singularem optinuit principatum. Caesar autem dictus, quod caeso mortuae matris utero prolatus eductusque fuerit, vel quia cum caesarie natus sit. A quo et imperatores sequentes Caesares dicti, eo quod comati essent. Qui enim execto utero eximebantur, Caesones et Caesares appellabantur.
http://www.fh-augsburg.de/~harsch/Chronologia/Lspost07/Isidorus/isi_et09.html#c03

カエサルは「死んだ母の子宮を切って」 (caeso mortuae matris utero) 取り出されたと言われている、とあるが、そのあとに、「また、髪の毛を生やして (cum caesarie) 生まれてきたから」だという説をあげる。さらに、「切った(?)子宮から (execto utero) 取り出された (eximebantur) ものは、Caesones (単数は Caeso) と Caesares (単数は Caesar)と呼ばれた」という。

この caeso と caesar 「切開で生まれた子供」は、手もとの羅仏辞典の見出しにも立っているが、その出典は上記イシドルスである。仏語宝典 (TLFi) の césarienne の項にも、イシドルスの引用があり、フランスでは、イシドルスのいう caesar と césarienne を結びつける認識が一般的なのかもしれない。

また、さらに古く、1世紀のプリニウス『博物志』7.47 に次のような記述がある:

Auspicatius enecta parente gignuntur, sicut Scipio Africanus prior natus primusque Caesarum a caeso matris utero dictus, qua de causa et Caesones appellati.
http://www.fh-augsburg.de/~harsch/Chronologia/Lspost01/PliniusMaior/plm_hi07.html

(母)親を (parente) 犠牲にして (enecta) 生まれた (gignuntur) 人の例として、アフリカヌスの称号をもつスキピオをあげ、初代のカエサルもまた (primusque Caesarum)、子宮切開によって (a caeso utero) 生まれたと言われている、としている。
primus Caesarum は直訳すれば、「カエサルたちのうち第一のもの」で、カエサルが皇帝の称号なら、初代は「あのカエサル」だが、家名 (cognomen) なら、「あのカエサル」の父もカエサルだったというし、「あのカエサル」以前に何人かカエサルがいるものと思われる。

ともかく、Caesar という名をもつ人で、切開によって生まれた人がいた、と、この時代に信じられていたことだけはわかる。

しかし、意味の派生関係については今ひとつすっきりしない。Caesar という名の語源俗解から「あのカエサルは切開によって生まれた」説が生まれ、「切開」と「カエサル」は関係があるとの認識がずっと持ち伝えられ、近代医学の夜明けに至って sectio caesarea の語を生み出したというあたりが無難なような気はするが。

結局のところ、「あのカエサルが切開によって生まれたことから、caesarean section などの語がつくられた」という説明では正確さを欠く。しかし、「caesarean section と、あのカエサルは何の関係もない」とするのは、不自然にすぎる。


この問題は、Web でもすでにさまざまに議論されている。「帝王切開の語源に関する覚書」は、多くの資料を整理していて詳しい。実は、ここにリンクをはるだけで終ってもよかったので、上に書いた話などは、屋上屋を架すようなものである。

一方で、「伝言ゲーム」の結果か、一部ではかなり珍妙な「誤訳説」に発展してしまった例も見受けられる。"Kaiser" はドイツ語では切るという意味である、等。引用を重ねることによって誤りやすい性質の話ではある。

「ユリウス・カエサル」の名は、ほかにも、

・「シーザーサラダ」は「あのカエサル」とは直接関係がない
・「ユリウス日」の「ユリウス」は「ユリウス暦」の「ユリウス」とは別(?)

など、なぜかいろいろ語源の話題を生み出してしまうようだ。

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