モスラの歌
「モスラー ヤ モスラー」の歌い出しで知られる、あの「モスラの歌」はインドネシア語である、というのはかなりよく知られている。日本語で原案を作り、インドネシアの留学生にたのんで翻訳してもらったというのだが、一部に「マレーシアの留学生」という説明も行なわれていた。
インドネシア語とマレーシア語は基本的に同じ言語だが、それぞれの国の国語として、このように呼ばれているので、仮に訳したのがマレーシア人ならば、「マレーシア語」というべきかもしれない。が、とりあえず、インドネシア人がインドネシア語に訳したという説明が一般に通用している。
かなり昔のことだが、「エクスプレスインドネシア語」を買った勢いで、この歌詞の「解読」を試みたことがあった。
ドンガンは dengan (ドゥンガン、英語の with にあたる語) なのは間違いない。カサクヤンという語はないが、kesaktian (クサクティアン、魔力)とすれば意味が通る。と、ここまではいいのだが、「インドウムウ」は見当がつかず、ここで早くも撤退したのであった。
その後まもなく、この問題はあっけなく解決した。「東宝特撮映画音楽全集(2) モスラ 完全版 オリジナル・サウンドトラック」(1995年発売) の CD を買ったところ、ライナーに「インドネシア語原詩」を含む資料が収録されていたのだ。

この資料は、なかなか詳しいので、その点では信頼できそうな気がする。歌詞は「田中友幸、本多猪四郎、関沢新一が日本語で詩を作りインドネシアの留学生がインドネシア語に翻訳した」もの、とある。参考として、「インファント島石碑文対訳」という日本語の詩が掲載されているが、この詩は三節にわかれている。「インドネシア語原詩」は、おおよそこれに対応する内容で、やはり三節ある。
で、「インドウムウ」は何かというと、原詩では次のようになっている。
hidup は「命」で、mu は「あなたの」という意味。なぜそれが「インドウムウ」になるのかよくわからないが、実際に歌われた歌詞は、原詩の第一節だけをデフォルメしたもので、サウンドトラックではそれだけを四回繰り返している。なぜといっても、「インファント島の小美人が歌っているような感じ」にデフォルメしたらこうなったとしか言いようがないのかもしれない。
Web で検索して出てくる「モスラのインドネシア語」の中には、「インドウムウ」を indukmu と想定しているものがある。induk は「母」であり、たしかに、歌詞だけから独自に復元した場合、このほうが無理がなさそうに思われる。
しかし、「原詩」は実際に歌われていない部分まであること、「石碑文対訳」でも「生命」の語が使われていることなどから、やはり hidup がオリジナルのようだ。
ただ、この「原詩」が唯一の「原典」なのかどうか、微妙に疑問に思えるふしもある。ザ・ピーナッツによる実際の歌唱と、この「原詩」のテキストとの、両方のもとになった別の「原典」があるような気もするのだが、未だ「エクスプレスインドネシア語」の範囲内におさまっている能力では、これ以上追究することは不可能である。
インドネシア語とマレーシア語は基本的に同じ言語だが、それぞれの国の国語として、このように呼ばれているので、仮に訳したのがマレーシア人ならば、「マレーシア語」というべきかもしれない。が、とりあえず、インドネシア人がインドネシア語に訳したという説明が一般に通用している。
かなり昔のことだが、「エクスプレスインドネシア語」を買った勢いで、この歌詞の「解読」を試みたことがあった。
モスラ ヤ モスラ ドンガン カサクヤン インドウムウ……
ドンガンは dengan (ドゥンガン、英語の with にあたる語) なのは間違いない。カサクヤンという語はないが、kesaktian (クサクティアン、魔力)とすれば意味が通る。と、ここまではいいのだが、「インドウムウ」は見当がつかず、ここで早くも撤退したのであった。
その後まもなく、この問題はあっけなく解決した。「東宝特撮映画音楽全集(2) モスラ 完全版 オリジナル・サウンドトラック」(1995年発売) の CD を買ったところ、ライナーに「インドネシア語原詩」を含む資料が収録されていたのだ。

この資料は、なかなか詳しいので、その点では信頼できそうな気がする。歌詞は「田中友幸、本多猪四郎、関沢新一が日本語で詩を作りインドネシアの留学生がインドネシア語に翻訳した」もの、とある。参考として、「インファント島石碑文対訳」という日本語の詩が掲載されているが、この詩は三節にわかれている。「インドネシア語原詩」は、おおよそこれに対応する内容で、やはり三節ある。
で、「インドウムウ」は何かというと、原詩では次のようになっている。
Mothra Ya Mothra
Dengan Kesaktian Hidupmu
hidup は「命」で、mu は「あなたの」という意味。なぜそれが「インドウムウ」になるのかよくわからないが、実際に歌われた歌詞は、原詩の第一節だけをデフォルメしたもので、サウンドトラックではそれだけを四回繰り返している。なぜといっても、「インファント島の小美人が歌っているような感じ」にデフォルメしたらこうなったとしか言いようがないのかもしれない。
Web で検索して出てくる「モスラのインドネシア語」の中には、「インドウムウ」を indukmu と想定しているものがある。induk は「母」であり、たしかに、歌詞だけから独自に復元した場合、このほうが無理がなさそうに思われる。
しかし、「原詩」は実際に歌われていない部分まであること、「石碑文対訳」でも「生命」の語が使われていることなどから、やはり hidup がオリジナルのようだ。
ただ、この「原詩」が唯一の「原典」なのかどうか、微妙に疑問に思えるふしもある。ザ・ピーナッツによる実際の歌唱と、この「原詩」のテキストとの、両方のもとになった別の「原典」があるような気もするのだが、未だ「エクスプレスインドネシア語」の範囲内におさまっている能力では、これ以上追究することは不可能である。
この記事へのコメント
語尾がインドネシアとマレーで違うんだそうです。
留学生説を私は支持します