二次元の美女「顔如玉」

『聊斎志異』の中に「書癡」という一編がある。郎玉柱という若者、本が大好きで、親が遺した山のような本のなかに隠れるようにして、引きこもって暮らしていた。一日中本を読んでいるのに、科挙の試験に受かって出世するというわけでもない。むやみに本を読んでいるだけでは、受からないらしい。

ある日、『漢書』の第八巻を読んでいて、本のなかに、美女のかたちに切り抜いた「しおり」のようなものを見つけた。よく見ると、かおかたちが生きているようだったので、ひっくり返して見ていると、突然、実物大の美女に変身した。美女は「顔如玉」と名乗り、「あなたとは前からの知己です」と言ったところを見ると、古本の精かなにかのようだ。

しかし、如玉は、本の中から出てきたくせに、郎玉柱に、「本ばかり読んでいては出世もできない」とさとす。「言うことをきかないと、いなくなってしまうわよ」とおどしながら、過激な「改造計画」に着手。ひととおりの教養・娯楽、人づきあいを指導して、スタイリッシュな青年に仕立てあげる。

二人は夫婦になるが、やはり、彼女はこの世界の人ではなかったからなのか、その幸せは続かず、結末は悲しい。

さて、この「顔如玉」という名には、いわれがある。郎玉柱は、「勧学篇」なるものを毎日暗唱していた。「勧学篇」といえば、荀子にあるのが有名だが、ここでいうのはそれではない。宋の真宗皇帝が作ったといわれる、次のような詩である。

富家不用買良田 書中自有千鍾粟
安居不用架高堂 書中自有黄金屋
娶妻莫恨無良媒 書中有女顏如玉
出門莫恨無人随 書中車馬多如簇
男兒欲遂平生志 五經勸向窗前讀

『聊斎志異』(北京十月文芸出版社、1997)の注釈による(原文簡体字)

名称は「勧学詩」「勧学文」「勧学歌」となっていることもある。いろいろなバージョンがあり、「五経」が「六経」になっていたり、句の順序が入れかわっていたりするが、大意は変わらない。

宮崎市定『科挙』(中公文庫)では、次のように紹介されている。

……
外出するにお伴がないと歎くな
本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ
妻を娶るに良縁がないと歎くな
本のなかから玉のような美人が出てくるぞ
……

つまり、「りっぱな家や、豊かな暮らし、美しい妻などは、すべて本の中にある。これらのものが欲しければ、本を読んで勉強することだ。学問すること、結局それが近道なのだ」。

実利をぶらさげて、若者の尻をたたいて勉強させようとする、なんとも俗な感じのする文句ではあるが、科挙がそれなりに機能していた時代には、教育水準を高めるのに一定の効果があったのかもしれない。

郎玉柱の面白いのは、この文句を全部文字通り真に受けていたことだ。「書中有女顔如玉(書中に女あり、かんばせ玉のごとし)」とあるので、出世しなくても、本さえ読んでいれば、本の中から美女が出てくると、本気で信じていた。「グラウンドには金が落ちている」と言われて、グラウンドを捜し回るようなものである。ところが、それが本当になり、その名も「顔如玉」という美女が出てくる。たしかに、「顔如玉」はいかにも人名らしく、「書中有女顔如玉」は、「本の中に顔如玉という女がいる」という意味にもとれる。

出世に背を向けるのか、向けないのか。この物語は、「勧学篇」にうんざりした受験生たちの悩みと妄想から生まれたのではないだろうか。

「顔如玉」を人名に見立てるのは、『聊斎志異』だけかと思ったら、そうではない。孔子の子孫は、世襲貴族として長い間伝統を守ってきたが、その家に生まれ育った人の口述を本にまとめた『孔家秘話』(大修館書店)の中にも「顔如玉」が登場する。

孔府の東学には御書楼(御碑楼ともいう)があり、歴代の皇帝から賜った経書詩文を保存していた。私の小さいころこの楼内にお化けが出て、楼内の書物が若い女性に化けたのだといわれていた。天女のように美しく、木底の小靴をはいて毎晩歩き回っていて、孔府にはゴトン、ゴトンという床板の音を聞いた者が沢山いた。また仙女を見たが一瞬にして見えなくなったという人もいたが、経書を熟読していない者には見えないということだった。孔府の人は彼女のことを「御書楼の若奥様」といっていた。どうして書物が若奥様に化けて、おじいさんにならないのかと尋ねたことがある。「書物の中に顔如玉がいるからさ」との答えであった。

「書中有女顔如玉」の一句が生み出した妖女は、「勧学篇」が親しまれた時代、たくさんの古い本が積み上げられている所には、どこにでも出没していたのかもしれない。

この記事へのコメント

松虫
2006年08月19日 22:42
本から女性が出てくるなんてのは二次元コンプレックスの元祖なのかも。

人が書いたものから女性が出てくる話といえば、今昔物語集だったかにもお寺に口のない女が現れるという話があったような。正体は経文の中の「如」の字の「口」が何かのはずみで消えたもので、その経文に紙を貼り直して「口」を書き加えたら女は現れなくなった、というやつ。

偶然なのか「如」の字が共通する話ですが、よく考えると「如」から「口」が消えたらただの「女」なので口のない女性である必然性が……。あ、でも字の一部が消えてほかの字が表すものになったら何のしゃれなのかわからないか。

文字を主人公にした物語って難しいものですね。
風鈴’
2006年08月20日 00:15
理屈に合っているようないないような……

「ある人が、お経の特定の箇所がどうしても覚えられないで困っていたが、実はその人の前世は紙魚で、ちょうどその場所を食べてしまったのだ」という話もあったような気がしますが、これもよく考えると理屈に合っていないような……。
鈴木幹夫
2021年12月02日 00:39
「書中女有り、顏玉の如し」等、私の考えはあなたとは少し違います。あなたの考えは、勉強が好きになれば、本が玉のような女に見える、と半ば中毒症状です。
私の考えは、たとえ彼女が自分にだけ居なくても、勉強して出世出来れば彼女なんかいくらでも出来る。しかもとびきりの美女を手に入れるのも可能だ。だから死にものぐるいで勉強しなさい。と現実的に解釈します。

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